アルファベットをもう1文字増やすなら。

アルファベットは26文字ある。

…数が中途半端だと思いませんか。個人的には前後の25や27の方がまだ収まりがいい気がする。とは言え「一番いらない文字を選んで25個にしよう」というのもアルファベット界(アルファベット界?)に波風が立ちそうなので、もうひとつ足して27個するのが正しい大人の対応だ。

 

そういったわけで今回は友人二人を集め、それぞれの思う「27文字目のアルファベット」を考えました。なお、大文字と合わせて小文字も考えることとする。

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各々のアプローチで探っていく。自分は既存のアルファベットをすべて書き出すところから始めたのだけど、彼女はまず漢字をレタリングしていた。大丈夫か、大丈夫なのか。

 

これ、とても楽しいのだけれど自分の想像以上に難しい。既存の文字の劣化版ばかり生まれる、これはどうかと捻るとギリシャ文字キリル文字にすでに似たようなものがあったりする。アルファベット、先人の知恵だなー。なお、見ての通りすでに結構お酒が入っている。 

 

唸ること10分、三者三様の新アルファベットが完成したため発表会が行われた。一人目は友人S。彼女は書道の段を持つ。文字に対する素養はこの中で一番高いはずだ。

 

私のアルファベットはこれです

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すごい、スタートから独創的なのが来た。

まず、アルファベットに四角いものがなかったので、四角をベースに考えました。そして”R”のように足があるものが良かったので、足をつけました。

確かに足があると安定感がある。

あと、数字の”四”を参考にしました

なんで漢字を参考にするんだ。

 

そして小文字は丸いイメージがあるので…

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これです。

引き続き独創体勢に入ってるなー。

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追加イメージを作ったら思ったより馴染みました。この調子で進めます。

 

続いてハナウタ案。英語は全くできない。

おれも同じく直線で組まれた文字。KとLの間にもう一文字欲しいと思って…

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こうです。矢印みたいでかわいい

たぶんもうすでに酔ってる。矢印みたいでかわいいってなんだ。

小文字は、おれも丸みをもたせて、あと”y”とか”j”とか下にはみ出るイメージがあったのでそれに倣いました

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あ、悪くないと思っていた小文字、こうして並べてみるとxやyと混同しそう。雑に書いても他の文字と明確に差別化できる、という点は重要かもしれない。

 

最後は英語やフランス語まで操る友人U。文字は汚いが言語能力に優れており期待は高まる。

おれの場合は機能から考えました。もう一文字追加するのであれば、他に付随して初めて意味を持ち、かつ意味を変革させる文字がいい

なるほど、確かにすでに26文字で機能している文字群なのだから、そこに追加するのであれば言語表現がより豊かになる機能を持たせるのは理にかなっている。

候補は二つで日本語で言う”ん”と”長音”。今回は長音を選びました。形はこれ

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そして小文字

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もっと紙の真ん中に書いてほしかったな。形自体は直線で構成され三者とも近い要素がある。なおもペンを走らせる友人。

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グワーーー。

基本的には筆記体で考えた(写真右端)。さらっと書けるように小文字を考えていったらこういう形に

あ、おもしろい!筆記体で考えるなんて思いもよらなかったな、限りなく実用的な気がする。並べてみるとこんな感じ。

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悪くない気がする。採用して欲しい。

 

今回は酒の席で上でごく短い時間で考えたけれど、じっくり腰を据えて遊ぶのも楽しいかもしれない。職業や環境によってアプローチも変わっていきそうで、わりと奥の深い遊びになるかも、という可能性を感じた。

 

次回は新しい数字でも考えようか。 

森山次第

夏派?冬派?といういつの世でも繰り広げられる議題がある。

おれは「夏は、服を脱いでも限界があり、対応のしようがない。だるい」の一本槍でこれまで「冬派」を貫いてきたのだけど、最近は冬も辛くなってきた。なにせ長い。体感として1年の半年は冬だ。春夏夏冬冬冬だ。秋はない。

おそらく一人暮らしをはじめた頃から冬がダメになってきている気がする。たとえ部屋を暖かくしたとて冷たい廊下、凍える着替え、上がり続ける電気代。自分の温もりだけで生きていくには限界がある。もういい、もういいだろう冬。思えば楽しい思い出はいつも夏のような気がする。花火大会、水遊び、例えそんな夏らしいイベントがなくても夏の夜の気候は一番ワクワクするものだ。

このような具合で近年は「夏の方がまだマシ」と冬にぼやき「冬が恋しい」と夏に嘆いている。これはもう夏派とか冬派とかそういう話ではない、気づいたろう、おれはただのわがままだ。

桜の花も散り、いよいよ季節が春めいてきた。ようやくこの死の季節も終わりを告げ、街中には周りを伺いながら春の歌が流れるだろう。直太朗が「さくらさくら」と歌えば春がはじまり、直太朗が「夏の終わり」と歌えば秋が来る。そう、そうやって地球は今日も回っているのだ。

書を捨てよ、町へ出よう、とんがりコーンを買いに行こう

嘘か誠かは知らないけれど、「ビタミンDを生成するためには日光浴が必要」という話が好きだ。

世の母親の「家でファミコンばっかやってないので外で遊びなさい!」という口上に強力なバックアップ態勢が整えられるデータだ。食事で与えられるだけの栄養は私が用意した、あとはてめえらで足りない分を生成してこい、というわけだ。学術的根拠に基づいた母親の示唆とあっては子どもたちは従うほかない。

スーパーフードだマクロビだなんだと頭でっかちになっている現代人にも警鐘を鳴らそう。バランスのとれた食生活やサプリメントをどれだけ机上で計算しつくしても、なぜかどうしてもビタミンDが足りない。骨の健康が保たれない。星新一ショートショートにでもなりそうな話だ。シェルターの中で完璧なデータを基にして暮らす未来人がやがて絶滅してしまう話。

そういえば先日外で食べたとんがりコーンが異様に美味しかったのもきっとそういうことなのだと思う。とんがりコーンを食べながらビタミンDを摂るには外で食べるしかない。書を捨てよ、町へ出よう、とんがりコーンを食べよう、ということだ。なんとなく名言めいたものを引用すれば話がまとまると思ったがまとまりそうもない。とりあえずここまで書いてとんがりコーンを食べたくなってきたので買いに出かけようと思う、学術的根拠なので従うしかない。

複雑な感情の話

この気持ちをなんと呼ぶ…という状態に陥るたび、”複雑な感情”など人間に要らん、と思う。

百歩譲ってドラマとして客観的に鑑賞する分には許そう。その背中だけで悲哀と誇らしさを表現したハリウッド映画のワンシーン、想いの届いた嬉しさの中に混じった一握の寂しさが読者をやきもきさせる恋愛漫画、”複雑な感情”があってこそ盛り上がる物語は確かにある。

ただ毎日を生き抜く上では邪魔なことの方が多いように思う。自分の気持ちが100で理解できていないから躊躇を生む。”複雑な感情”が阻んで一瞬のチャンスを逃したことも数多くあるだろう。

赤ちゃんには”興奮、快、不快”の3つの感情しかないと言う。なんてちょうどいい数なんだ。この3つだけで過ごせたら判断力は格段に上がるんじゃないか。物事にぶち当たったときも「快」だと感じたら前に進めば良いし、「不快」なら止まれば良いのだ。

恋愛漫画もわかりやすくなる。「快です、付き合ってください」「快、お願いします」だし「快です、付き合ってください。興奮」「不快、ごめんなさい」でいいのだ。

どうにか赤ちゃんのように過ごせないか…ある程度悩んだところで、そもそも”喜怒哀楽”自体も”興奮、快、不快”の混ぜ合わせでしかないのではという考えに至った。”喜”が”興奮+快”なら”怒”は”興奮+不快”、”哀”はそのまま”不快”、”楽”は”快”だ。なんてことはない、ただ初めから持ち合わせていたキャンパスの絵の具を少しずつ混ぜただけで我々は大人の感情を身につけたつもりになっていただけだったのだ。

行き場のない気持ちも「興奮5、快4、不快1だな」などと整理してしまえばあとはもう赤ちゃん同然だ。そう考えると気持ちは少し楽になる、そんな気がする。なんだか興奮してきた。

引越しの話

今年の夏でこの部屋に引っ越してから2年になる。環境を変え生活を始め直すのは楽しいことだ。新しい場所でうまくやっていけるかな、ディスコディスコだ。とはいえ引越し作業自体は大変なことも多い。

「実家→一人暮らし」の引越しは想像の2倍ラクだったが、「一人暮らし→一人暮らし」のそれは想像の3倍骨が折れた。様々な書類手続きが同時進行で寄せては返し、一体自分が今何の手続きをしているのかわからなくなり、失神してしまう。たくさんのまぶしい書類 とけて消えちゃいそうだ。

引越し作業で直面するのが「身の回りのもの、いつ梱包するか問題」だ。最後まで使いたい。ただタイミングが遅れると最終盤までドタバタすることになる。前回の引越しでは最後に残った棚がドライバーで解体するものだと気付いた頃には時すでに遅く、このうず高く積まれた段ボールのどこにドライバーがあるでしょうクイズになり再び失神した。

比較的モノは少ないから、とたかを括っていたら意外と残り段ボール数が切迫してきて焦ったりもする。途中からジャンル分けが適当になる。“入っているもの”を記入する欄に「重要書類・くつ」と記す。完全にものの分別ができない人だ。もしくはめちゃくちゃ靴を重要だと思っている人だ。

もうすぐこの部屋を更新するか否か考えなくてはいけない。引越すことになったら今度はうまくできるかな、たぶん できるはずって思わなきゃしょうがない。

上野動物園を外から覗いた、の話

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 よーく見ると白黒のサルのお尻が見える

 

動物園を外から眺めよう

動物園が好きだ。中でも上野動物園はアクセスも良くメジャーな動物が揃っているため、気楽に動物園を味わえる素敵なスポットだ。そんな上野の広大な敷地を歩いていた時にふと思ったことがある。

 

「園内に入らなくても、外から動物たちが見えるんじゃないか?」

 

園の中からでも動物園の外の様子が洩れ見える。ならば裏を返せば園の外周を練り歩けば“洩れ動物”の一匹や二匹と巡り会えるのではないか。これはそんな思いから上野動物園を外から覗いた話である。

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上野動物園正門。入り口から入るひとが多い

 

同志を募り3人で集合したのは昼過ぎの上野駅。1月とは思えない暖かさはまさに動物園日和だ。人の流れに沿い正門へ向かう。ただ今日ばかりは入場口に従順な我々ではない。チケット売り場に背を向け右回りに出発する。待ってろ、まだ見ぬ動物たち。

 

見える!鳥だ!

中はなんとなく見えそうだ。鳥がいそうな檻(地図に表記がなく本当かはわからない)。今はパンダの展示の裏側ではないか(推測だ)。家で印刷してきた上野動物園周辺の地図とGoogle Mapを頼りに位置を確かめながら進む。iPhoneによると現在地はゴリラから車で3分らしい。ゴリラまで3分。

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ゴリラまで3分

 

まっすぐ進むと明らかにひらけたポイントにぶつかった。旧正門である。すごい、鳥が!鳥がすごい見える!はしゃぐ一同。ケージによってはむしろ外から眺めたほうが距離が近いぐらいで一気にテンションが高まる。慌てて双眼鏡を取り出す、双眼鏡は動物園観察の必須アイテムだ。

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コシアカキジ、シラコバト、アカガシラバトなどが見えるらしい。すごい嬉しそう

 

ちなみにカワウソのブースも見えたが人が邪魔で動物自体は見えなかった。チケットを買った人が優先されるシステムらしい。

 

東園をぐいぐい進む

引き続き歩く、歩く。背伸びして、ガードレールに足をかけて塀の上の様子を探る。柵と柵の間をかいくぐる。目を凝らしフェンスの先を見やる。ゴリラが見えるかも!と門のスキマを覗くもおばさんと目があうだけだ。

 

哺乳類となかなか出会えない我々にもついに転機が訪れる。動物園に程近い建物屋上の奥の奥に楽園を見つけたのだ。園内を一望できる絶好の立地、誰にも邪魔されぬ静けさ。その楽園で3人はトラを見た。トラを見たのだ。今思い返してもこの体験だけでも1日外を練り歩く価値があったと思う(写真は割愛)。

 

“洩れ動物“はいるのだ!興奮冷めやらぬ我々は尚も進む。ところで外周を回るとネコや鳩を良く見かける。疲れと興奮で感覚が麻痺してしまったのだと思う、あとあと写真を見返すとネコと鳩の写真がやたら多い。何度見てもただのネコと鳥だ。

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ネコだ

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鳩だ

 

ネコと鳩はさておき、動物園外回り初心者の方々のために難易度の低いおすすめスポットを紹介したい。それが「子ども動物園の裏側」だ。カピバラ、ヤギ、ポニーといった馴染み深い動物たちを至近距離で見ることができる。

 

とくにウマは大きくて興奮する。こんなに大きな動物を見せてくれてありがとう、という感謝の気持ちで心がいっぱいになるのだ。白いウマも見えるし茶色いウマも見えるぞ(ただし立ち止まると通行人に迷惑なので流し見に留めること)。

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こんなに見えてしまって…ウマよ

 

西園は動物園の裏側がよく見える

東西に分かれた園内。西園は敷地の半分を池が占め、動物の数も少ない。比較的地味な西園はしかし外から眺めるとなかなかに興味深いエリアだった。デビュー前の飼育段階であろう鳥たちを集めたケージ、電力施設、爬虫類館横に水の濾過施設、動物搬入用の通用口。文字通り動物園の裏側だ。

 

普段内側を歩いていると気づかないけれど動物園を運営していくにはたくさんの備えやそれに関わる人たちがいるのだと実感することができた。

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デビュー待ちの鳥。おそらく普通に入場するとこの鳥たちは見えない

 

西園でも鳥は相変わらず見放題だし、それなりのサルも見えた(冒頭に写真を記載)。どうやら鳥とサルなら見せてもいいと思われている。ペリカンはいつでも脱走できる放し飼いだ。なんだんだ。

 

洩れ動物は愛おしい

そのままぐるっと南下し、上野の外周歩きは道程2時間半、11,000歩ほどで終幕した。3人は程よい疲労感と、それを上回る確かな充足感で満たされていた。自分の足で探し出し隙間から出会えた“洩れ動物”たちは、普段お膳立てされて容易に見られるそれらより何十倍も愛おしかった。

 

ほんの思いつきだった動物園観察は、今まで気づかなかった動物園の様々な側面を知ることのできた予想以上のよい旅となった。

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入場料は浮いたけどその足でアメ横へ行き盛大に宴を開いてしまった様子

 

※この記事は別冊ZOO(2016年5月5日刊行)へ寄稿したものを加筆、修正したものです

「が」の話

友人から興味深い話を聞いた。

東京では「私が書いた」というように使われる助詞の「が」は、通常の「が」の発音と異なるらしい。鼻濁音になり、アタックが弱くなる。大げさに言えば「んが」。標準語もおそらくこれに準じる。

我が強い

そらんじてみる。言われてみればひとつめとふたつめの「が」の響きが違う、ような、気もする。そもそも自分は住処を転々としていたのであまり標準語の発音に自信はないのだけれど。

これは ”山の手言葉”からの派生だそうだ。「ごめんあそばせ」「ざます」などハイソな言い回しが特徴的な言葉遣い。友人は山の手マダムであった祖母から幼少期に注意を受けて「が」の発音を矯正されたのだと話していた。

発音は無意識の塊だ。そして大げさに言えば”敵か味方か”をかぎ分ける要素にもなりうる。「が。」敵だ。「んが。」味方だ。もちろん自分と違う発音に惹かれることもあると思う。

学校で「は」と「が」の使い分けを教わっても「が」の発音は教わらないし、英語の「L」と「R」の発音をクリアしても、きっとこのような無意識の音の使い分けが星のように存在するだろう。違う文化圏、言語圏の人間に成りすますのは殊更難しい。

誰かに好意を持ったのは話の内容の前に、言葉遣いの前に、そのひとの発音のひとつひとつかもしれない。そんなことを考えながら「が」を聴いてみる。