アプローチが独特なスポーツ少年だった思い出

 ふいにスポーツ少年だった記憶が蘇った。アプローチの仕方が多少独特だったこともセットで思い出した。

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 父親モータースポーツから球技に渡るまでわりと幅広くスポーツ観戦をする人間だったので、その隣でスポーツをわりかし観て育った。

 中でも一番好きだったのは相撲だ。当時は曙や小錦貴乃花若乃花といった華のある力士も多く、将来の夢に「お相撲さん」とまで書くほどだった。

そんな幼いころの自分がハマったのが”折り紙で作るトントン相撲”だ。一度は遊んだことがあるだろうか、適度な大きさの空き箱の上に紙で折った力士を向かい合わせ、トントン、と箱を叩くことで力士たちが振動で動き、戦わせる遊びだ。

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しかもただ戦わせるに飽き足らず、大きなものや小さいもの、細めに作ったものや少し足元の不安定なものなど個性豊かな力士たちを20体ほどこしらえ、それぞれにしこ名をつけ、番付まで用意した。巡業させたのだ。相撲取りが夢なら身体のひとつやふたつでも鍛えてみれば何かに繋がったかもしれないのに、幼稚園児の趣味が”巡業”。渋すぎる。

 野球も好きだった。当時福岡に住んでいたため福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)を応援し、何度か福岡ドームにも足を運んだ。そんな野球少年だった当時ハマっていた遊びが、”架空の野球チーム同士を頭の中で戦わせ、スコアを書き、新聞のスポーツ欄を作る”だ。

一言でなんと説明すればいいのかわからない。とにかく独特だ。勝利投手やホームランを打ったバッターまで記録し(新聞に書くので当然だ)架空のペナントレースを展開させていた。インドアにもほどがある。 

 とはいえずっと家に居る子どもだったかと言えばそうでもなく、実際に取り組んだスポーツもある。サッカーだ。折しもそのころJリーグが開幕し、サッカー熱は最高潮。地元のサッカークラブにも通った。ではボールを蹴ることにすっかりハマりその後中学高校と続け快速FWとして名を馳せたかというとそんなわけもなく、やがて面倒になり1年半ほど通ったのちに退団。それでもサッカーを好きだった少年がハマった遊びがある。それが、”まだJリーグクラブの存在しない地域を探し、そこをホームグラウンドとした架空のクラブを作り、頭の中で戦わせ、新聞のスポーツ欄を作る”だ。

ただただスポーツ欄の充実していく幼少期だった。