ペソ安にかきまわされた日々
ビットコインやらなんやら最近よく聞くのでおれもお金の話をしようと思う。NISAの話だ。
NISA(少額投資非課税制度)は2014年にはじまった、その名の通り少額からはじめられる”投資を始める人を増やそう”という大きな動きから生まれた制度だ(たぶん)。まあここでNISAがなんたるかを話す気は無いし、おれも詳しいことはまったくわからない。
そう、おれはまったく詳しくないのだ。
事の発端は父親。実家に帰った時、ふいに貯金はどこに預けているのかと訊いたきた。銀行だ、と答えると「そんな金利の低いところに預けていても仕方ない。NISAで口座を作れ、100%得だ」と言う。まるで進研ゼミの漫画の導入部分だ。おとなチャレンジだ。
NISAの存在自体は知っていたけど、とにかく面倒だ。日々株価の変動に追われるのなんていやだ、と答えると「おれが銘柄を選んでやるからすべて任せとけ、まずは100万円振り込め」と持ちかけてくる。ほとんど山賊だ。まぁでも確かに銀行の金利も低いし、彼もやる気があるようだから任せてみるかと了承し、口座を作った。※いまは1年間に120万投資できるけど、開始当時は100万円が上限だった
後日父から連絡があった。「メキシコにしました」メキシコにしたらしい。いま思えば普通はリスク分散というか、いくつかの銘柄に分けて投資してリスクヘッジするらしいのだけど、おれの100万円はメキシコに全額ドンだ。父曰くざっくり言うと、メキシコの通貨ペソの価値が上がる、”ペソ高”になるほどおれは得をするらしい。地球の裏側の異国に想いを馳せる日々が始まった。
結論から言うと、ペソはどんどん下落した。いわゆるペソ安だ。なんだペソ安って、絶対にクラスでいじめられる側の名前なのに、ペソ安がおれを責める。よくわからないけど石油がどうたらこうたらした影響とかで、2015年の経済紙には”ペソ、史上最安値の更新が続く”との文字が躍っていた。
実家に戻ると父親が(´・ω・`)この顔をしていた。「ごめん…」とのこと。その時点で確かおれの100万円は70万円くらいになっていた。おれは怒る気もなかった、そもそもあまり期待もしていなかったし、目に見えないお金に対する執着が薄いという弱点があったからだ。自信満々だった父親が所在なさげなのがおかしかった。
それからは特に価格の動向は追っていないので今どうなっているかはわからない。どうやら当時よりは持ち直しているらしい。やっぱりおれは投資には興味が向かないなと改めて実感した出来事だった。
で、これだけだったら”投資の下手な父親の話”なんだけど、父親自身の持ち株は好調らしく、年に100万単位で利潤を出しているらしい。毎日パソコンとiPadをにらんで投資を楽しんでいると教えてくれた。息子の100万にもそれくらい情熱を持って接してくれよ。
人生の許容量を超えた食べ物、集まりました。
昨日募集した”人生の許容量を超えた食べ物”、さっそくいろいろ集まったので紹介します。
人生の許容量を超えた食べ物、ありますか?
昨日友人とした話がおもしろかった。”人生の許容量を超えた食べ物、ありますか?”という話だ。
なんかある気がする、と思い出せたのがひとつ。はなまるうどんのコクうまサラダうどん(胡麻ドレッシング)だ。500円くらいで食べられるしなんだか健康的な気がするし何より単純に美味しかったので週1くらいで食べていたのだけど、ある日突然食べられなくなった。あんなにありがたがって食べていたのにどうにも箸がすすまない。これが”飽き”か…!と恐ろしく思った。間を置いてチャレンジしたがやっぱり受け付けられず、それ以来一度も食べていない。
友人は”もやしのポン酢がけ”と”玉ねぎにバターを乗せてチンしたやつ”らしい。どちらもわかる気がする。バクバク食べられるけれど確実にどこかに飽きのトリガーがある料理たちだ。「毎日食べていたら突然飽きて…」毎日食べちゃダメだよ。
最近はローソンだかの”照り焼きチキンと卵のサンド”が「そろそろ許容量を超えそう」らしい。「最近毎日食べてるから…」毎日食べちゃダメだよ、学んでよ。あと、超えそうって思っているなら自粛しなよ。
大好きだったものが突如受け付けなくなる、という悲哀というかストーリーがあるのが面白いのかもしれない。みんなの”人生の許容量を超えた食べ物”の話も聞いてみたい。ブログへのコメントでもTwitter(@1106joe)へのリプライでもいいので、お便りお待ちしてます。
バルミューダの炊飯器を買いました
バルミューダの炊飯器を買った。
それにあたってブログを書こうと思うが、機械音痴かつ味覚音痴のおれにはいわゆる家電レビューなどとてもじゃないが書けない。炊きたてのごはんおいしいー!で終わってしまう。そんなこと日本人全員が知っている。
今日書きたいのはバルミューダではなく、今まで使っていた炊飯器のこと。
我が家の炊飯器は1999年生まれだ。実家で長らく働いていたが、家族が大きくなってからは“さすがに3合炊きでは…”ということで大きな最新炊飯器にその役目を奪われた。それをおれの一人暮らしが始まるタイミングで回収し、きれいに磨き上げて今日まで粛々と米を炊いてきた。思い出深い炊飯器なのだ。
とはいえ彼がとうに限界を迎えていることは明らかだった。単純に美味しくないのだ。冷凍なんてした日には目も当てられないパッサパサの出来栄えなのだ。まぁでも彼を責められるわけもない。何せ1999年製。聞けば炊飯器の寿命というのは5,6年なのだという。彼は18歳。人間でいうと250歳くらいだろうか。250歳に米を炊けなんて非人道な話だ。
そういったわけでついにこうして最新の炊飯器を我が家に招き、引導を渡すことにした。彼にとっては2度目の引退というわけだ。マリノスのドゥトラ、阪神の遠山を彷彿させる充分な働きだった、カムバック賞をあげたい。
もちろんバルミューダの炊飯器は比較にならないくらい美味しい。炊き上がり前に不安になる程煙をあげることもない。それでも彼を捨てることができずにまだキッチンの床に置いてある。なんだか寂しいじゃんねぇ。内釜だけでもお米を洗うボウルとして3度目の人生を歩んでもらうつもりだ。
透明なミルクティーの技術を盗めと上縁メガネの課長はぼくに言う
「透明な…ミルクティーだと!?」
サントリーからの公式ニュースリリースに、商品開発部のデスクはさながら往年の刑事ドラマのような空気だ。
ついこの間透明なレモンティーを出したばかりじゃないか。そんな簡単に応用が利くものなのか?飲料を無色にする技術に関して完全に後発となった企画部門は焦っていた。そもそもそんな技術に需要があるなんて思ってもみなかった。紅茶を透明にしたからなんだというのだ、というバカバカしい気持ちもある。だが事実として”透明なレモンティー”は売り上げを伸ばしているのだ。弊社の純然たるレモンティーの売り上げは押し出される形で見事な下降線を辿っていた。
「ちょっと、結城」上縁メガネの課長から呼び出された。嫌な予感がする。「工場の地図、これね」やっぱり。諜報部のぼくの出番のようだ。
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と、まぁそんなわけで道中のぼくの頑張りは長くなるから省くけれど、 工場に潜伏するまではクリアしたところだ。これが本職なわけで、当然といえば当然なのだけれど。とはいえ気が抜けないのはここが天下のサントリー様であること。とにかくこの企業は用心深くて嫌いだ。他の飲料メーカーと比べても抜群にセキュリティが固いのだ。無数に仕掛けられたレーダーを掻い潜りながら進む。
それにしてもいつにも増して厳重じゃないか?ようやく一番奥までたどり着いて静かに汗を拭う。この角の先がお目当ての透明なミルクティーのラインか…こめかみの小型カメラがしっかり起動していることを確認する。よおく収めてくれよ。
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角を折れて製造工程にかち合ったぼくは目を疑った。ラインの途中までは完全に普通のミルクティーなのだ。褐色と言うのだろうか、とにかく変哲もないミルクティー。それが工程の最後、容器に[TR-091]と記された液体がひとしずく落ちた瞬間そのミルクティーは透明になりかわった。化学実験というか、魔法のようだった。多分ぼくはそのとき驚きで声が出てしまったのだと思う。
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しまった。事もあろうにぼくの声はレーダーに捕らえられ、あっという間に屈強な男達に身体を取り押さえられてしまった。ああ、どう抜け出そうか。「ちょうどいい、これを使おう」ひとりだけひょろ長い背格好をした男が[TR-091]と書かれた液体を取り出した。「その液体は」男は満面の笑みを浮かべる。「さっき見ただろう。これは触れた物質を透過させる性質を持つんだ。弊社の研究成果の結晶さ」なんでも?「なんでも。どうやらキミはかくれんぼが好きみたいだから気にいると思うよ。特別に身体へ注入してあげよう」液体が注射器を通してぼくの腕から注入されていく。少しずつ、注入された部分から透明になっていく。うそだろ。
「じきに全身に回るだろう、素敵だね、透明人間の完成だ。これでキミはかくれんぼし放題さ。もっとも網膜も透明になる以上、視力は失うことになるだろうが…」
友人に会いに島へ行った
こんばんは、北向ハナウタです。
1、2週に1回のペースで書いていたのだけどいきなりひと月近くも間が空いてしまった。いきなり不定期だ。
そのあいだに何をしていたかというと和歌山の島に行ったりしていた。今日は備忘録としてそのことを書こうと思う。だらだら書き連ねるが、半ば友人へ宛てたものなので乱筆を許してほしい。
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その島へは学生時代の友人に会いに行った。友人は繊細なゴリラに似てるのでここでは彼のことをGと呼ぶことにする。高校まで和歌山の島で暮らした彼は進学と同時に上京。同じ音楽サークルに所属したのが縁で、もうひとりの友人(川崎生まれなのでKと呼ぶ)と3人でよくつるんでいた。
彼には人を惹きつける魅力があったが典型的なダメ人間だった。卒業まで5年を費やし、卒業した後もバイトを始めては辞めてを繰り返す。仕送りでパチスロを家に導入する。ようやく続けられるバイトを見つけたのが25の頃。
この先一体どうするのだろうと心配していたら中学時代の彼女と再会し1年付き合ったのちに結婚。そのまま故郷の島に戻り、娘が産まれ、島に家を建て、さらに翌年にはもうひとり娘が生まれ、という具合でおれよりひとつ年下の彼は一足飛びであれよあれよと人生を駆け上っていった。
兼ねてよりKと一度島に行きたいね、という話をしていたが、次女が3ヶ月になり落ち着いたというタイミングで夏休みに入ったので行くことに決めた。
ここからは普通の旅行記だ。
1日目は朝集合し、とにかく今日は名古屋 or 三重を目指し、車で行けるところまで行こうという話をした。何しろおれはペーパードライバーなのでKに全てがかかっている。休憩をとりながらひたすら車を走らせる。延々と続く静岡の中盤あたりで「名古屋に泊まってもしょうがないよな」という真理にたどり着き、伊勢神宮を抱える三重を目指すことにした。
https://twitter.com/1106joe/status/470439099375943680
伊勢神宮は前からKにおすすめされていたので一度訪れてみたかったのだ。
この日はTwitterが大活躍だった。なかなか当日予約が取れないなか助けを求めたところ、なんと”今日空いている宿”を探してくれ、さらにはおすすめの夕飯までサジェストしてくれた。ぜんぶ従った。
2日目は伊勢神宮、鳥羽水族館をめぐり、男二人観光を堪能しながら和歌山へ。本州最南端から少しはみ出た紀伊大島へ辿り着く頃にはすっかり日も暮れていた。
島に着いてからはとくに何をするでもなく過ごした。海に浮かぶ岩を見たり、娘と遊んだり、マグロバーガーを食べたり、3人で歌を作ったりした。
Gは年間で数えるほどしかないという休みを取ってくれた。とにかく彼には休みがない。島に戻った彼は夜があける前から漁をしたり魚の養殖をしたり、というのを毎日繰り返している。肌も日に焼け腕は脚ほどに太くなり、ますますゴリラのようになった。もう繊細なゴリラではない、立派な海ゴリラだ。
すごい逞しかった。あんなに働くのが苦手だったGが家族の大黒柱となって毎日海へ出ている。彼の運転で船に乗せてもらったときはちょっと感慨深かった。波乗りジョニーをみんなで歌った。
4日目、帰りの朝。Kとおれにクーラーボックスが届けられていた。Gの父親がお土産にと用意してくれたらしい。Gの父親は、我々ふたりの間では屈強な大男というイメージが広がっていた。Gから度々仕事の上司である父親からどれだけ毎日怒鳴られているかという話を聞いていたからだ。しかも島の、海の男だ。たぶん、山ひとつくらい背丈がある。
お礼を伝えてから帰ろう、という話になりKと二人で恐る恐る彼らの仕事場へ向かう。運良くGの父親に会えたのでお礼を伝えると、彼は空いてる船を指差した。すでに海へ出ているGに会わせてくれるらしい。
父親の操縦でGの働いてる生簀まで案内してもらい、Gにあいさつを終えたら、その後養殖しているマグロの様子なども巡って見せてくれた。無骨で寡黙で、本当に言葉少なだったけれど、どうやら東京から二日かけてやってきた息子の友人たちを歓迎してくれているようだった。
帰り際、ぽつりと「あそこに空き家がある」とこぼした。一瞬何のことかと思ったがどうやら彼なりのジョークだと気付き、「東京に疲れたら、住みに来ます」と返事をした。おれからは表情が見えなかったけど、Kいわくその返答に少し笑顔を見せたらしいので、たぶんあれで間違ってなかったのだと思う。
その後Kが奮闘し、最南端から12時間かけて東京まで戻る。クーラーボックスを抱え帰宅する頃には日付が変わっていた。
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そんな4日間だった。さすがに体力は底を尽きていたけれど、Kと自分の表情は晴れやかだった。行ってよかった。
Gが信号機もないような島での生活を選び、働く姿を見て、そうか、おれも当たり前のように東京で暮らしているけれど、これはおれが選んだ日常なのだと思った。東京に住み、東京で仕事を選び、東京で暮らしている。全部自分で決めたんだった。
”友人はすぐ会えるほど・すぐ遊べるほどいいものだ”と信じ、友人たちと徒歩圏内で暮らしているけれど、遠くで友人が頑張っているというのも悪くないものだな、と帰りの車中でぼんやり思った。
アプローチが独特なスポーツ少年だった思い出
ふいにスポーツ少年だった記憶が蘇った。アプローチの仕方が多少独特だったこともセットで思い出した。
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父親がモータースポーツから球技に渡るまでわりと幅広くスポーツ観戦をする人間だったので、その隣でスポーツをわりかし観て育った。
中でも一番好きだったのは相撲だ。当時は曙や小錦、貴乃花・若乃花といった華のある力士も多く、将来の夢に「お相撲さん」とまで書くほどだった。
そんな幼いころの自分がハマったのが”折り紙で作るトントン相撲”だ。一度は遊んだことがあるだろうか、適度な大きさの空き箱の上に紙で折った力士を向かい合わせ、トントン、と箱を叩くことで力士たちが振動で動き、戦わせる遊びだ。
しかもただ戦わせるに飽き足らず、大きなものや小さいもの、細めに作ったものや少し足元の不安定なものなど個性豊かな力士たちを20体ほどこしらえ、それぞれにしこ名をつけ、番付まで用意した。巡業させたのだ。相撲取りが夢なら身体のひとつやふたつでも鍛えてみれば何かに繋がったかもしれないのに、幼稚園児の趣味が”巡業”。渋すぎる。
野球も好きだった。当時福岡に住んでいたため福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)を応援し、何度か福岡ドームにも足を運んだ。そんな野球少年だった当時ハマっていた遊びが、”架空の野球チーム同士を頭の中で戦わせ、スコアを書き、新聞のスポーツ欄を作る”だ。
一言でなんと説明すればいいのかわからない。とにかく独特だ。勝利投手やホームランを打ったバッターまで記録し(新聞に書くので当然だ)架空のペナントレースを展開させていた。インドアにもほどがある。
とはいえずっと家に居る子どもだったかと言えばそうでもなく、実際に取り組んだスポーツもある。サッカーだ。折しもそのころJリーグが開幕し、サッカー熱は最高潮。地元のサッカークラブにも通った。ではボールを蹴ることにすっかりハマりその後中学高校と続け快速FWとして名を馳せたかというとそんなわけもなく、やがて面倒になり1年半ほど通ったのちに退団。それでもサッカーを好きだった少年がハマった遊びがある。それが、”まだJリーグクラブの存在しない地域を探し、そこをホームグラウンドとした架空のクラブを作り、頭の中で戦わせ、新聞のスポーツ欄を作る”だ。
ただただスポーツ欄の充実していく幼少期だった。